17 August 2010

入学式 & 始業式 2010/08/14

La ceremonia de entrada y la de apertura
14 de agosto, 2010
 8月14日は、入学式、始業式、そして初授業の日でした。今年度の新入生は3人と少ないのですが、編入生も加えて総勢68人の生徒とともにスタートです。私は1年生の担任なので、新入生3人と助手の先生と一緒にトトロの「さんぽ」に合わせて入場。新入生の紹介、父母会長の挨拶、在校生代表の歓迎のことばなどなど。続く始業式では、前年度の成績優秀者に記念品贈呈、各担任によるクラス発表。
 そして休み時間の後に、1時間強で今年度の初授業です。私の担当の1年生には新入生3人を含めて10人が在籍します。今日は、入学式&始業式ということで、朝の挨拶ができること、名前が呼ばれたら返事ができること、クラスメイトを覚えて仲良くなることを目的に授業をつくりました。挨拶や返事は、1年生を継続履修している子がお手本になって新入生もきちんとできました!その後、円になって呼ばれた名前の生徒にボールを投げるという簡単なゲームをしましたが、これがけっこう盛り上がりました。ルールをわかった子がわからない子に説明してあげたり、どの子にボールを投げればいいのか教え合ったり、生徒同士で自然に助け合う雰囲気ができたことがよかったと思います。その後、学校探検をして休憩。
 休憩の後のゲームは、生徒にはルールを理解するのが難しく、反省。教科書のぬり絵はみんな熱心に取り組んでいました(ドミニカ共和国の日本語学校には年少者用のオリジナル教科書があります、後日記述予定)。絵を書いたり色を塗ったりするのはみんな大好きの様子です。
 授業の後は、父母会のみなさんによる私たち新任教師の歓迎会。軽食を用意して保護者がそれぞれ挨拶をしてくださいました。また、保護者のみなさんのなかには9月から始まる成人クラスの学習者もいるので、親子そろって自分の「生徒」になることもあるのです!
(記事掲載2010/08/17)

16 August 2010

新聞記事「日本人のドミニカ共和国到着から54年」 エル・カリベ紙 2010/08/07

'54 AÑOS DE LA LLEAGADA DE JAPONESES A RD' EL CARIBE
7 de agosto, 2010

 8月7日、ドミニカ共和国の新聞EL CARIBE(エル・カリベ)紙の”Aniversarios del mes de agosto(8月の記念日)”という特集記事に日本人移住者の写真が掲載されていました!スペイン語学習をかねて新聞を読むようにしていますが、この記事には興奮!日本人のドミニカ共和国移住に関しては全く日本語の資料のみで勉強しているので、このように現在でも現地の新聞に取り上げられているとは興味深いです。ドミニカ共和国にいる間に移住に関するスペイン語文献を探してみたいと思っています。
 以下、記事全文の訳と原文です。
「日本人のドミニカ共和国到着から54年
トルヒーヨの農業を中心とする移民受け入れ計画(注1)により、1956年7月日本人労働者の第一陣45家族166人が到着し、ダハボンのラ・ビヒアに入植した(注2)。同年12月の写真は、新たな日本人移住者グループが到着した時のものである(注3)。1962年8月10日、日本人移住者らはドミニカ共和国移住6周年を祝った。1971年までに400人以上の移住者がドミニカ共和国に在住している(注4)。1998年8月の移住43周年記念の際、ドミニカ日系人協会会長の日高守さん(注5)は次のように語った。『この年月とともに日本人移住者の組織的な営みには、新しい世代が生まれている。移住者たちは結束固く対立のない、またこの世代であること子孫であることに誇りを持てるような日系人社会を
形成しなければならない。』移住者の多くはドミニカ人との家庭をもち、その子孫らがここドミニカ共和国に生活している。」2010年8月7日『エル・カリベ』紙
 (注1)トルヒーヨは、1930年~1961年のドミニカ共和国の独裁者。ドミニカ共和国のハイチ国境警備のための移民受け入れ政策と日本の人口問題打開のための移民送り出し政策が合致して、1956年~1959年の日本人のドミニカ共和国移住が実現したと考えられています。この辺りはまた改めて書きたいと思います。
(注2)今野・藤崎編著(1994:285)では、入植第1陣は28家族185人。
(注3)時期と人数から見て、おそらくコンスタンサ第2次入植の12家族68人ではないかと思います。
(注4)1956年~1959年の日本人移住者は計249家族1319人で、1961年~1962年に133家族が集団帰国、70家族が南米等へ再移住(今野・藤崎編著1994:286)。ドミニカ共和国に残ったのは46家族(今野・藤崎編著1994:295、直接聞いた話では47家族とも)で、現在の日系人人口は約800人。
(注5)現在は日高守さんのお兄さんが副会長で、私たちの着任式にも来てくださいました。



“ 54 AÑOS DE LA LLEAGADA DE JAPONESES A RD

Según un plan que tenía Trujillo de aceptar inmidrantes para ue se dedicaran principalmente a la agricultura, en julio de 1956 llegó el primer grupo de trabajadores de Japón que correspondió a 45 familias, compuestas de 166 personas, que se asentaron en La Vigía, Dajabón. En la foto de diciembre de ese mismo año, vemos un nuevo grupo de japoneses al momento de su llegada al país. El 10 de agosto de 1962, los inmigrantes japoneses celebraron el sexto aniversario de su asentamiento en tierras dominicanas. Para el 1971, en el país residían más de 400 inmigrantes. Durante la celebración del 43 aniversario, en agosto de 1998, Mamoru Hidaka, presidente de la Asociación de Emigrantes Japoneses, expresó que “esos años marcan la apertura de una nueva generación en la vida organizativa de los emigrantes japoneses, los cuales deberán culminar en la formación de una comunidad japonesa sólida, libre de división y que pueda ser el orgullo para las generaciones actuales y las venideras”. Muchos de los inmigrantes formaron familias con dominicanos y sus descendientes residen aquí.”  
EL CARIBE, 7 de agosto del 2010.

参考文献:
今野敏彦・藤崎康夫編著(1994)『移民史Ⅰ 南米編 増補』新泉社
(記事掲載2010/08/16 本当はスキャンした画像を添付したかったのですが、技術不足かアップロードできず、新聞を写真に撮って掲載します。)

9 August 2010

職員会議 2010/08/07

reunión de los profesores
7 de agosto, 2010
 8月7日、日本語学校で今年度最初の職員会議が開かれました。参加者は、現地の先生5人と日系社会シニアボランティア1人、そして私たち日系社会青年ボランティア3人です。この9人の教師に日本語学校卒業生のアシスタント教師2人を含めた11人が、この学校の教師全員です。今年度の行事予定や担当クラス決定などが議題です。
 私の担当は1年生クラスと成人クラス初級(入門の次のクラス)です。1年生クラスは昨年度から引き続き在籍する生徒が7人と新入生が数名の予定。子どものクラスは翌週土曜から、成人クラスは9月から開始です。 ドミニカ共和国の日本語学校では原則1学年を2年間履修し、6学年を9~12年間で卒業することが目安となっています。サントドミンゴ校は一昨年度まで子どもクラスは週1回でしたが、昨年度の1年生より試験的に週2回のクラスを開講し、今年度からは1、2年生のクラスは週2回が基準となります。
 後日、職員室の写真を掲載しようと思います。(記事掲載2010/08/09)(写真掲載2010/08/16)                 

活動開始 & 会長訪問 2010/07/28


comienzo de mi trabajo y visita al presidente de la Asociación Nacional de Japoneses
28 de julio, 2010
 7月28日より、待ちに待った活動開始です。午前中は日本語学校にてシニアボランティアの方と今年度の大まかな打ち合わせをしました。午後は日系人協会会長(ドミニカ移住訴訟時の原告団事務局長)を訪問し、これからの活動への激励を受け、また移住当時のお話を伺いました。
 写真は、私が勤務する日本語学校サントドミンゴ校です。校庭には小さいながらもバスケットコートがあり、1階に事務所と教室3つ、2階に職員室と教室3つの配置です。
 また、写真には写っていませんが、地方から上京して首都の大学に通う学生のための寮が併設されています。孫引きですが、1981年2月22日朝日新聞の記事によれば、この寮は国際協力事業団(現在の国際協力機構JICA)から3800万の予算で寄贈されたものだそうです。寮の設計は8歳の時に両親と移住してきた建築家の曽根誠さんとのこと(上田1988:181-182)。

参考文献:
上田秋助(1988)『アディオス・ミ・サント・ドミンゴ―欺かれた一ドミニカ移住者の記録―』南の風社
(記事掲載2010/08/09)

着任式 2010/07/27

Presentación Oficial de Nuevos Voluntarios Nikkei
27 de julio, 2010
 7月27日はJICA事務所において着任式が行われました。
着任式には日系人協会副会長、日本語学校運営部部長、同副部長、サントドミンゴ校父母会会長が来てくださいました。今回の日系社会青年ボランティアは、3名全員が首都のサントドミンゴ校に勤務します。
 着任式の後、それぞれの下宿先に送ってもらい、いよいよ翌日から活動開始です。


写真はJICA事務所があるTorre Empresarialです。
(記事掲載2010/08/09)

2 August 2010

南西部移住地視察: ドゥベルヘ、ネイバ 2010/07/10

La visita a las colonias japonesas: Duverge y Neyba
10 de julio, 2010
 7月10日、ドミニカ共和国南西部のドゥベルへとネイバという町にある日本人移住地跡を訪ねました。この国に8か所ある日本人移住地のうちの2つです。 朝7時にJICA事務所へ集合し、2台の車へ南西方面へ。海沿いを走りぬけて3時間半、ひとつめの視察地、ドゥベルへに到着しました。(具体的な場所は下のビデオ、または記事末尾のリンクlocationを参照ください。)

ドゥベルヘ
 このドゥベルへの日本人移住地は、町の中心から少し離れた所にありました。乾燥した空気の中に、移住者の当時の家が整然と残っています。この家々には今では現地の人が住んでおり、地元の人がかつて住んでいた移住者の記憶を話してくれました。
 ドミニカ共和国への日本人移住は1956~1959年に実施されましたが、ドゥベルへの移住は1957 年に第一次、第二次、そして1958年に第三次移住が実施され、計37家族155名がこの地に到着しました(高橋1987:78)。しかし、ここの土地は塩分を多量に含んでいたうえ、約束された水路の整備も実現されず、移住者たちは満足した農業を営むことなく1959年により内陸のハラバコアへの再移住を余儀なくされたそうです(今野・高橋編1993:39-40)。



ネイバ
私たちはドゥベルヘを後にして、ここより少し北に位置するネイバへ向かいました。ネイバの移住地はドゥベルへよりも比較的緑の多い土地にありましたが、ここでも移住者たちには想像を絶する苦労が待っていたようです。
ネイバへの移住は1957年に第一次、1959年に第二次が実施され、移住者は計24家族87名(高橋1987:78)。この地への移住は当初野菜栽培を目的にされたものでしたが、石ころだらけの土地では野菜を育てるどころではなかったそうです(今野・高橋編1993:35-40)。試験的にブドウ栽培を始めた移住者もいたようですが、この地から大使館や海協連(日本海外協会連合会、当時移住事業を扱っていた団体で現在のJICAの源流)への訴えの声があがったということです。こうして実現されたのが1961年の集団帰国です(高橋1987:96)。
このネイバ移住地にも日本人はもう住んでいませんが、わずかにブドウ栽培の様子を見ることができ、今ではブドウ栽培の地として知られているようです。

参考文献:
今野敏彦・高橋幸春編(1993)『ドミニカ移民は棄民だった―戦後日系移民の軌跡―』明石書店
高橋幸春(1987)『カリブ海の「楽園」―ドミニカ移住三十年の軌跡―』潮出版社

次のビデオは語学研修の最終発表会(7月26日)のために作成した視察報告です。スペイン語のみですが、移住地の写真を見ることができます。



corrección: De la página ocho, los que imigraron de nuevo a otros países no fueron 33 familias, sino 70(Konno y Takahashi 1993:27).

JICA事務所よりブログ公開の許可をいただきましたので、改めてブログをスタートします。載せて欲しい情報やトピック等ありましたらコメント欄にお願いします!(公開2010/08/02)